今回の先生列伝は教鞭を執られて二十五年、常に仏のような笑顔を絶やさない国語科の寺久保先生の御登場です。
昭和十二年にお生まれになった先生は、中野生まれの原宿育ち。幼少時は戦後間もないころで、「楡家の人びと」の舞台となった斎藤茂吉の脳外科跡の焼け野原で遊んだ経験もあるそうです。剣豪小説に夢中だった中学時代を経て、田園調布高校に入学。山岳部や文芸部をはじめ数多くのクラブに加入し、生徒会活動にも参加、学校祭にフォークダンスを取り入れるといった当時には珍しい企画をなさったそうです。このころの趣味は、切手収集やシートン等の動物小説を読む事で「切手を売って家を建てようと思ったが建たなかったなあ」。
また勉強の方はというと、数学や国語が好きで、特に国語は休日に近所の講師の先生の家に行っては「更級日記」や斎藤茂吉の「万葉秀歌」を教わり、増々興味を深めたそうです。そんなこともあってか、卒業前には「国語しか私の残された道はない。国語の教師になろう」と決意なさったとのこと。
その後、先生は埼玉大学文理学部に入学。ワンダーホーゲル部で日本アルプスに登る一方、能楽研究会で素謡(自分達で謡う)をするといったパワフルな青春時代を過ごされたようです(現在も登山は先生の御趣味とか)。
ところで、先生は国語の中でも古典が専門。そこで古典の魅力について伺ってみたところ、「『古典とは常に新しき書なり』という言葉があるように、古典を読むと、その当時の人間性や物の見方に現代に通じるもの、或いは忘れ去られたようなものを成程と発見させられる。そんなところが魅力かな」とお答えが戻ってきました。また、古典を教える時に心掛けていることは、「古典に限らず、学問は疑問から始まる。生徒の質問には先生の教え方のまずさから起こったものもあり、本人の勉強する自覚から出たものもある。前者の場合は、直していけば先生自身の進歩に結び付き、後者は生徒の要求を理解できる。だから常に『質問はないか?』と聞いているなあ」。
古典の事について話される時の先生は、学問に対する真摯な態度が伝わってきて「さすが」と感心してしまいました。どこかおっとりした口調の中に、光源氏(?)の雅さが感じられるのです。
教師になりたての頃、校長先生の「生きた日本語を教えて下さい」という言葉が印象的だったそうですが、是非これからも私達を優雅な古典の世界に誘っていただきたいものです。 (ラセーヌの星)
寺久保勲先生 国語 戸山高校在職 1980〜98