今回の先生列伝は、三十六年七ヶ月にわたって戸山にお勤めになり、今年三月に退職された体育科の伊原先生の登場です。
先生は、昭和三年一月二日、富山県の海辺にお生まれになりました。十六歳までを過ごしたその海辺は壁のようにそびえ立つ立山連峰を背にしており、夏は海で泳ぎ、冬は山でスキーをされていたそうです。
しかし、時は戦争中。先生は十六歳で志願して海軍航空隊に入られたのでした。入隊後五ヶ月たった昭和二十年八月八日、遂に先生の所属していた特攻隊に出撃命令が出ましたが、前線基地で待機中に終戦となりました。「負けたのは信じられなかった。同期の仲間も大勢戦死しており、家に帰りたいような帰りたくないような気持で帰って来た」と語られました。
その後、先生は体育専門学校の「文部省臨時教員養成所」に入学し、昭和二十三年に教員になられました。戸山にいらっしゃったのは、それから二年と六ヶ月後のこと。
「その年から共学だったけれども、当時は校舎がなくて、分散授業(各地に散らばり、他校の校舎などを借りて行う授業)だった」。そんな状況で先生は遮二無二教鞭をとられました。その頃の生徒は「よく勉強し、よく遊んだ」そうです。先生は「終戦の痛手と荒廃の中で、これからの日本を立て直す学生達にしっかりしてもらい、立派な国家を作って欲しい」と思っておられた、とのこと。専門の体育分野では、アメリカのニーフェルド中佐という人にアメフトの簡略版 “
タッチフット” を教えてもらい、これがきっかけでアメリカン・フットボールに興味を持たれたそうです。
「運動はどうすれば上達するとお考えですか?」との問いには「どんな運動でもできないからといって逃げずに一回でも多く練習すること。そうすれば自然と上達する」とお答えになりました。少し間をおいて「これは勉強でも同じ」とも。
では、先生は戸山生の勉強に対する関心を、長い間見てきてどう思ったのでしょう。「本当の授業とは生徒と先生が一体となってつくりあげるもの。以前はそれがあったのに最近は受け身となり、真剣味に欠けてきている」とおっしゃいました。
戸山生は「一対一で話し合うと非常に良い生徒達だが、集団になると自分のすべきことを忘れる者が多くなった」そうで、「自覚」の本当の意味をつかんで行動に表わして欲しい、と語られました。我々には耳の痛い話ばかりでしたが、先生は終始優しく教えて下さいました。長い間、本当にありがとうございました。
伊原公男先生 保健体育 戸山高校在職 1950〜88