2013.4  別 冊 城 北 会 誌


記念会館の建設と解体


 城北会誌第9号(1962年8月)掲載の座談会のなかで、同窓会の会館建設の「夢」が語られていました(本別冊2012.12「城北会の再建と城北会誌の復刊」 参照)。それは城北会の母校創立80周年記念事業の記念会館として建設され、多方面にわたって大いに利用され、しかし38年後に解体されました。その経緯をわかる範囲で述べたいと思います。
 「夢」は、母校創立80周年が近づくにつれて現実味をおび、具体化してきました。そして、3年後の城北会誌第13号(1965年12月)に次のような記事が掲載されました。

母校創立八十周年記念事業について

                                        (城北会誌第13号)

 城北会は、年々フレッシュな新会員を迎えるとともに、会員の組織化も着々すすんで、長い伝統を基盤とする前向きの姿勢をととのえつつあります。こうした城北会の活発な動向は、会員各位の城北会への関心の高まりを示すものといえましょう。
 昭和42年には、母校の創立80周年を迎えます。城北会としてもこの記念すべき年を迎えるに当って、一そう会活動を集約して会組織の強化へと前進したいと考えますが、同時に1世紀に近い母校の歴史と伝統を示すこの記念すべき日に対し何らかの形で祝意を表わしたいとも考えます。
 その有意義な“祝意”の表現については、ここ数年来、会員各位の間で活発な話題となり、また強い要望でもありましたので、城北会では、これを母校創立80周年記念事業計画として推進することにしました。
 母校側でもいろいろ記念事業計画について準備をすすめられていますが、城北会では、去る1月、大正10年から昭和30年各期の会員有志を中心に「記念事業準備委員会」を結成し、佐久間前会長が同準備委員長に就任されました。
 同委員会では、記念事業計画のすすめ方−何を記念事業とするか、実行委員会をどのように組織するかなどについて、母校側とも連絡をとりつつ研究をつづけていますが、試案がまとまり次第、会員各位におはかりします。いま、有力な案となっていますのは「会館」(仮称)の建設であります。
 有意義な計画案がまとまったとしましても、その具体化につきましては、会員各位の強力なご協力がなければ実現しません。会員各位の多数のご意見を基礎にして、記念事業計画の準備をはじめたわけですが、会員各位のより一そうのご支援とご理解がなければ、記念事業計画としての集約化も困難なことであります。従って、準備委員会の成案化の努力をご注目くださるとともに、その試案が示されたときは、活発な会員各位のご意見、ご批判を加えて下さることをお願いします。そして、会員各位の強力なご理解とご支援のもとに、母校創立80周年を記念する、城北会の記念事業として、これを結実させたいと念願するものであります。
 ところでこのころ、毎年12月発行の城北会誌とは別に「号外」があって、昭和38(1963)年から毎年5月ころに発行され、会員全員に配布されていました。B5判4頁、まもなく6〜8頁になりました。その昭和41年5月発行の号外に「母校創立80周年記念事業−記念会館の建設−」という記事が建設基金の呼びかけとあわせて掲載され、同月の城北会総会に提案されたのです。
 そうして城北会誌第14号(1966年12月)に、以下のような建設基金の募集の呼びかけが掲載されることになります。

建設基金の募集 母校創立80周年記念 記念会館

                                         (城北会誌第14号)

会員各位  昭和41年5月21日東京の椿山荘で開かれた城北会総会で、母校創立80周年記念事業として“記念会館”建設を決議し、その基金募集に着手することになりました。
 城北会は年々フレッシュな新会員を迎えるとともに会員相互の連絡も緊密となり、長い母校の伝統を基盤とする会の組織もいよいよ強固となりつつありますが、昭和42年にはこの母校も創立80周年を迎えることになりました。
 城北会としても、この記念すべき年に当って、いっそう会活動を集約し会組織の強化前進をはかりたいと考えていますが、同時に、一世紀に近い母校のこの歴史と伝統にたいし、なんらかの形で祝意を表したいと、昨年1月母校創立80周年記念事業準備委員会を結成、母校側とも連絡、協議をつづけた結果、同委員会では、母校敷地内に、母校創立80周年記念「記念会館」を全城北会会員の基金拠出をもとに、母校側の協力によって建設する案を計画しました。
 この計画は、城北会評議員会の承認をえて、さらに、総会で「母校創立80周年記念事業」として決議されたものであります。  記念会館としては、鉄筋コンクリート造り2階建の建設を予定し、東京都の承認のもとに、これに要する建設基金の募集金額は1,300万円を目標としています。
 この記念会館が完成すれば、母校の教育活動に使用されるとともに、城北会会活動の新しい拠点としての本部事務所も整備し、会員の集会場として利用され、会の組織化のうえにも大きな威力を発揮することになりましょう。母校創立80周年を記念するにふさわしい記念事業であると確信いたします。
 城北会は、記念事業準備委員会を、その推進機関の中核として、会館建設基金募集に当りたいと考えますので、会員各位におかれましては、以上の主旨をご理解のうえ、基金募集に積極的なご協力をお願いしたいと存じます。

                                  城 北 会 会 長  加 藤 重 一
               母校創立80周年記念事業準備委員会委員長  佐久間長吉郎

  (記念会館建設計画概要)
 建設予定地:東京都新宿区戸山町1 東京都立戸山高等学校内
   着工予定:昭和42年1月
   完成予定:昭和42年10月
 建築設計者:諫早信夫氏(大正14年卒)
 規模・構造:鉄筋コンクリート2階建 412.50u(125坪))
 募金予定額:1,300万円
 募金締切:昭和41年12月末日
 (建設基金の募集)
   1口 1,000円 口数に制限はありません。
   10口以上の方は、分割ご送金でもけっこうです。
 ついで、昭和42年5月発行の「号外」の記事。

募金締切 昭和42年6月30日

建設基金の募集着々すゝむ

いまひといきの努力

とくに昭和年度会員のご協力を要望

 母校創立80周年記念事業の「記念会館」建設基金の募金状況は、会員各位のご協力で、着々、数字はふえつつありますが、いまひといきのご協力を熱望したいのが実状です。募金締切は、都当局の手続き関係で、6月末日まで有効です。
 記念会館そのものの建築計画は城北会側の鈴木(定)(昭9)花見(昭5)両常任理事と建築設計者諫早信夫氏(大14)学校側代表者による小委員会を中心に具体案を作成し、学校側、城北会側のそれぞれの審議をえて最終案も完成、都当局への手続きをすゝめて、5月には着工の予定までプログラムがすゝんでいます。
 募金につきましては、昨年の総会後、会員各位にパンフレットを発送して募金協力の呼びかけを開始し、5月から8月にかけて、大正、昭和の各年度を数グループに分けて、その評議員世話人有志の会合を開き、準備委員長、城北会常任理事が出席して、それぞれ各年度での募金協力をお願いする努力をすゝめて、募金の促進をはかりました。その結果、明治、大正各年度からのご協力は強力にすゝみましたが、昭和期の各年度からのご協力がもっと欲しい情況となりましたので、本年初頭、募金状況の中間報告を各年度の評議員世話人会員に発送するとともに、いまひといきの募金協力をお願いしました。
 以上が、募金経過の大要ですが、学校側のご協力で、具体的な建築計画も着々すゝんできていますので、基金募金の努力をもうひといき盛り上げなければというのが、現在の実情です。とくに昭和期の各年度会員に、最後のご協力と募金ご努力をお願いしたい。
 一世紀に近い母校の伝統に敬意と祝意を表すのにふさわしいこの記念事業「記念会館」の建設をぜひわたくしたち城北会員の力で完成させたい、また完成させるために、いまひといきの募金努力にご協力下さい。
別冊城北会 記念会館写真
完成した記念会館(城北会誌第15号より)
 翌43年5月の号外には、本体8頁の外に、寄付会員2026名の氏名が、5頁にわたって記載されました。

 城北会誌第15号(1967年12月)は全208ページの大冊で、母校創立80周年記念特集号として発刊されました。そこには10月30日に行われた体育館での記念式典の模様や、この日にあわせて完成した記念会館の全景や内部の写真、そして式典に引き続いてこの記念会館で行われた記念パーティーの模様が、まだ白黒写真ですが、12ページにわたって掲載されています。「夢」がかなって記念会館が完成するまで、5年の年月がかかったわけです。

記念会館 図面 記念会館の最終設計図(城北会誌第15号より)
 また、城北会誌第15号には、この時期、長きにわたって城北会の運営や会館建設に深く関わってこられた鈴木定夫氏の、次のような記事が載せられています。

母校創立八十周年記念事業 記念会館の完成まで

                                          (城北会誌第15号)

 母校80周年記念事業として計画した「記念会館」の建設は、母校側の多大のご協力とともに、会員各位の基金醵出のご協力でみごと完成。去る10月30日行われた母校の80周年記念式典当日には、城北会完成祝賀ビアー・パーティで会員各位に披露されました。
 記念会館建設が母校創立80周年記念事業として計画され、いまここに完成した経緯を次にご報告しましょう。
 戦後、城北会の組織が復活、着々組織が拡大され、会則の変更とともに、会長を会員から選出して、その若返りの努力がすすめられましたが、こうした会活動の活発化にともなって、会事務所の確保が一番の問題であり悩みでした。母校側のご協力で、これまでは母校事務所の一隅に、ささやかな事務所をもって会務の処理に当ってきました。会の役員会も母校校長室を借用、少し大きな会合には、他の場所を求めなければならず、それだけ、経費も余分の支出を伴っていました。 なんとか事務所だけでも確保したいということが、役員各位、ひいては城北会活動に関心の深い会員各位の念願であり、機会あるごとに話題となりました。こうした切実な希望と母校創立80周年記念事業計画の準備の動きとが結びつき、「会館建設計画」という有力な記念事業構想へと発展して、まず、昭和39年12月の常任理事会で「記念事業準備委員会」の設置を決め、ついで昭和40年1月16日、日比谷の日生劇場会議室では、大正10年から昭和30年までの各期の有志懇談会を開き、この席上、城北会としてなんらかの記念事業を実施しようとの基本方針が打ち出されました。こうして佐久間前会長を、この記念事業準備委員会委員長に推せんするとの基本的態度も決まりました。
 スタートを切った記念事業計画成案化への努力は、同年6月22日、丸の内ホテルでの母校側記念事業準備委員会との第1回懇談会へとすすみ、母校の校門を入って左側の地坪の聖地計画の進展とにらみ合わせ、同地に記念事業として記念会館を建設する案が、有力な計画事業として取り上げられる空気が強まりました。城北会側は、準備委員会、常任理事会で、この計画案の具体的な研究をつづけましたが、準備委員会として評議員会に具体的な勧告を行うまでに一番努力しましたことは、公表することは、完成することと同義語でなければならないという慎重な立場から、建設基金の募金額とその会員からの醵出の見通しをうることでした。
 そのため、各期の有志に働きかけ、この記念事業の趣旨のご理解を願い醵出の見通しをたてていただくことに努めて、集まった具体的な資料のもとに計画案を作成、常任理事会の承認をえて昭和41年4月の評議員会で高田会長から提案、母校創立80周年記念事業として「記念会館建設」計画を決定し、募金活動に入ることを決めました。ついで同年5月の椿山荘で開かれた総会では、全員の決議として記念会館事業の推進に当ることが採択され、全会員にはパンフレットを配布して記念事業計画の発表と募金活動が開始されまし。
 高田会長に代って新会長に就任された加藤会長は、佐久間準備委員長、高田準備副委員長とともに、計画推進の先頭にたたれましたが、同年5月から10月にかけて、昭和2−10年、昭和11−15年、昭和16−20年、大正2−6年、大正7−15年、昭和21−30年、昭和31年以降の各グループに分けて各期の世話人有志と懇談、基金醵出への協力を要請する努力もつづけられました。
 また、記念会館の具体的な設計案については、大正14年卒の不動建設KK常務諫早信夫氏に委嘱、母校側とは小委員会を設置して同氏をまじえ、城北会側から花見一(昭5)鈴木定夫(昭9)両常任理事が参加して同年5月6日に第1回会合を開き、以後ひんぱんに同委員会を開いて成案をいそぎ、東京都当局への手続きもすすめました。
 こうして都当局の手続きの進行と順序に従って計画実施もすすみ、昭和42年6月3日、母校敷地内に会館建設の着工式が行われ、この10月、母校創立80周年記念事業としての「記念会館」は、母校側の絶大な協力と会員各位の募金醵出のご協力によってみごとに完成をみたわけであります。
                                    常任理事 鈴木定夫(昭9)
 こうして、城北会誌は第16号から毎号「記念会館使用状況(城北会関係のみ)」を掲載するようになりました。16号には昭和42(1967)年11月から1年間の、評議員会、9回の常任理事会、同期会が6回、クラス会が8回、そして21回ものクラス会など、計79件が記録されています。
 記念会館はまた、一部選択授業の教室としても利用されましたし、他校の先生方を含めた先生たちの会合・集会などにも利用されました。
 このように盛んに利用された記念会館ですが、第21号(1973年12月)あたりから「記念会館使用状況(城北会関係のみ)」の記録件数は30回前後となり、第31号(1983年12月)の昭和57年11月から58年10月までの記録件数は20回になっています。
 しかし、1987(昭和62)年の創立百周年が近づくと、使用件数は再び増えはじめます。たとえば百年史委員会は昭和60年から62年まで、ほとんど毎週土曜日に記念会館を使用しています。この状況を記録した第35号(1987年12月)は「創立100周年記念特集号 PART3(完)」と銘打たれていて、「会館使用状況」の欄はこれを最後になくなっています。

 記念会館の解体は、母校の全面大改築にともなって行われました。都当局がこれを決定したのは1998(平成10)年2月でした。その年12月発行の城北会誌第46号に、「戸山高校新校舎建設事業について/事務局」という記事があり、「この度、森校長より在校生保護者各位に対し、次の通りの「戸山高校改築についてのお知らせ」が連絡されました。同窓生にとっても大変関心の高いことですので、許可をいただき同文書を転載させていただきました」として、この文書が全文掲載されていますが、それには記念会館についての言及はありません。末尾に以下のような工事日程が載っています。
  工事日程概要(予定)
平成11年(1999)12月  校庭に仮設校舎建設開始
平成12年(2000)4月  仮校舎使用開始
平成14年(2002)秋以降 新校舎完成
平成15年(2003)秋以降 校庭等完成
 それから、さまざまの議論があり、紆余曲折があって、ちょうど2年後の2000年2月に、最終的な設計図が決定されました。この経過のなかで記念会館の解体も決まっていったわけですが、その理由は、工事用車両が出入りするための道路と、生徒の登下校の際の通路を並行して設けなければならないが、生徒の安全性を確保するためには解体もやむを得ないというものだったようです。この事についての記載は、城北会誌には、一つもありません。
 号外の方に、少し記載があります。平成11年6月1日発行の評議員会報告の、山田会長の挨拶のなかに「校舎改築については、これから取り壊し、プレハブ校舎での授業で大変とは思うが出来上がりを楽しみにしている」とあり、翌12年5月20日発行の号外では、評議員会報告で、中田校長より「校舎改築の概要説明」があったとあって、「母校校舎改築工事の概要報告(改築委員会資料より)」という項目のなかに「A既存校舎解体工事(H13.5〜6)  記念会館、西館、図書室、給食室」と記されています。
 なお、平成12年の号外には、機関誌委員会の三浦委員長(昭30)から「平成13年度より経費節減の一環として「号外」と「城北会誌」を併合し、年1回5月発行とする旨、報告があった」とあります。2001(平成13)年から城北会誌は5月発刊となり、号外は廃止され現在に至っています。

 記念会館については、城北会ホームページに記録がありました。それは2001年1月17日付の「母校だより」のなかの。以下のような報告です。

母校「校舎改築」の概要

(平成12年5月、改築委員会資料より)

1 校舎配置
 ・既存格技棟以外を解体。
 ・格技棟の東側に隣接して体育館。
 ・格技棟と体育館の北側に隣接して校舎棟。
 ・校舎棟の北側東寄にテニスコート2面。
 ・校舎棟の北側西寄に駐輪場、更に、その西隣にラジアン池(移設)。
 ・校舎棟西側に隣接してテニスコート2面。
 ・敷地のほぼ東半分全面にグランド。
 ・グランドは1周200mトラックとその北側にバレーコート3面。
 ・現在の記念会館の跡は緑地、正門よりラジアン池までは緑地と緑道。
 ・従って、校舎等は敷地中央に集約。
2 校舎計画概要
 ・一部5階建、南面に普通教室、北面に特別教室、中央部に視聴覚教室、
 図書室、LL教室、計算機室。
 ・全館空調。
 ・エレベーター1基。
 ・他に、自習室、特別教室(理科、社会科、調理、音楽、被服、美術、書道等)。
3 全体工事計画
 ・12.10〜13.2 仮設校舎建設
 ・13.5〜13.6  校舎、記念会館解体工事
 ・13.6〜13.7  体育館解体工事
 ・13.9〜16.1  建設工事
 ・16.4〜16.8  仮設校舎解体
 ・16.9〜17.3  外構工事、グランド工事
 この概要にもとづいて、城北会事務局は、その移転計画を2001(平成13)年1月までにまとめました。城北会ホームページには、同年2月21日付で「城北会事務局の仮設校舎への移転のお知らせ」が載ります。

城北会事務局の仮設校舎への移転のお知らせ

 戸山高校校舎改築に伴う記念会館解体のため、城北会事務局は仮設校舎
(現東校舎南側テニスコート閉鎖跡)に下記の通り移転します。城北会事務局
の場所は、仮設校舎3階北西隅になります。

 1.概略スケジュール
  3月16日(金) 記念会館での事務局業務最終日
    24日(土) 記念会館電気水道ガス停止
    26日(月) 仮設校舎完成
    27日(火) 移転日
  4月2日(月) 仮設事務所で事務局業務再開
 2.主な移転物
  ・図書、写真アルバム 80箱
  ・城北会事務書類   40箱
  ・資料、事務備品など 80箱
  ・事務機器、ロッカー、架台、ラック
記念会館と桜
記念会館と桜の最後のツーショット。記念会館の中は ガランドー。
  (撮影日:2001年4月9日)
 前記の、「母校校舎改築の概要」は、城北会ホームページに2001年3月14日付で再掲されました。
 事務局は予定通り3月26日に移転準備を完了させ、翌27日に移転しました。28日に仮設校舎の新事務局でOA機器の据付も完了、4月2日に事務局の業務を再開したのです。
 記念会館の解体も、予定通り、2001(平成13)年6月に行われました。


 城北会誌第49号(2001年5月)の「母校だより」の中に、つぎのような「都立戸山高校校舎改築計画及び体育館施設使用状況一覧表」が掲載されています。工事はほぼこの計画表の通りに進みました。
校舎改築計画及び体育施設使用状況一覧表
記念会館と桜
解体撤去されてしまった記念会館。右が生徒の登下校用通路。
(撮影日:2001年7月1日)
 解体直後の模様や、新校舎建設の経過などは、城北会ホームページのこの別冊のボタンの二つ上、「新装戸山高校施設 改築記録写真集」をクリックして下さ い。ここで見ることが出来ます。  記念会館の建設に関わり、そして、利用してきた会員の皆さんが「解体」をどのように受けとめたのか、どのような感慨をもたれたのか。それは、その事についての記載が城北会誌にないということから、忖度していくよりほかにないようです。
   掲載者:林 善紀(昭34)

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